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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話まとめ

2ch日本史板「鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話」スレのまとめサイトです。

驚愕の天台座主の在位の短さ 

770 :日本@名無史さん:2012/04/16(月) 18:43:11.64
寺門(寺の内部昇格)出身の天台座主の、異様な在任期間の短さ

28代明尊 長暦2年(1038)補任して三日目に、山門大衆の反対で辞任。

34代覚円 承暦元年(1077)2月5日補任。山門大衆が騒いで翌日辞任。

39代増誉 長治2年(1105)2月14日補任。翌日辞任。

44代行尊 保安4年(1123)12月18日補任。6日後辞任。

47代覚猷(鳥獣戯画で有名) 保廷4年(1138)補任。3日後辞任。

50代覚忠 応保2年(1162)2月1日補任。2日後辞任。

60代公顕 文治6年(1190)3月4日補任。4日後辞任。


公顕以降、流石にもうこのシステムはダメだと考えたか、寺門出身の座主はなくなり、摂家門跡、宮門跡の時代となる。

戦後の総理大臣どころではない、寺門出身天台座主の在位の短さのお話。




771 :日本@名無史さん:2012/04/16(月) 21:36:49.58
>>770
寺門出身は園城寺(三井寺)出身という意味ではありませぬか。
というわけで山門(比叡山)から攻撃を受けたと。

772 :日本@名無史さん:2012/04/18(水) 13:18:49.00
座主=守護大名、行人(大衆)=被官、国人にあてはめればそんなでもないと思うが

773 :日本@名無史さん:2012/04/18(水) 22:13:10.42
普通に考えれば、寺門=園城寺の出身ということでしょうね。
実際皆園城寺の人だし。


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( 2012/04/20 19:22 ) Category 雑談 | TB(0) | CM(0)

雑談・官僚制度とかあれこれ 

756 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:26:52.98
三権分立を提唱した人として教科書に載ってる人は、共和政治はすぐに堕落するから君主制の方が良いよ、みたいなことは言ってた

757 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 20:06:58.99
モンテスキューはエリザベス女王とかがパトロンだったしな

758 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:13:33.67
>>755
民主主義は出来てから200年ちょっとでもうガタが来てるからね。
高度に教育された大衆がいないと成り立たないんだよ。
本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。

759 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:39:03.79
> 本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
> 本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。
「本当の意味でのエリート」なんてのが存在した時代なんてないだろ?
妄想世界の中以外では。

760 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:40:01.53
>>756
寡愚制に堕しなかった君主制なんてのも、存在したためしがないな。

761 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:02:05.82
君主制にも民主制にもその他の政体でも官僚がいるから、官僚こそ国の頂点だろう。
事実、官僚機構が脆弱な室町幕府は、統治能力が他の時代に比して弱かった。
>>759
北条得宗家の義時-時宗までは立派な統治者だと思う。多分日本史上最高の。

762 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:10:35.13
>>761
鎌倉幕府は室町幕府よりずっと官僚機構が惰弱なんだが。
そんなことも知らんのか

763 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:24:13.95
惰弱なのか。俺は官僚個々人の内面については興味ないよ。

764 :日本@名無史さん:2012/02/09(木) 06:27:32.40
あとは財政基盤でしょう

766 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 19:21:45.39
>>761,763
鎌倉幕府と室町幕府では、幕府の権限の範囲、実権の強さにおいて、圧倒的に
鎌倉幕府<<室町幕府
なんだがなあ。

鎌倉幕府は権限の範囲が小さいから小規模で簡素な官僚機構でも充分に機能した。それだけだ。


767 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 21:11:23.82
実権の強さってのはあくまで相対的なものだろ。
鎌倉幕府:御家人
室町幕府:鎌倉府・守護大名
どっちが強いかは自明だ

768 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 22:50:01.55
室町幕府は理論上日本中の武士を統率し動員できるが、鎌倉幕府は御家人として幕府が把握している武士しか
統率できないし、非御家人武士の側にも幕府に従う義務はない。

769 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 07:57:40.57
>>768
そのせいで国人衆を動員した守護に手こずるって話じゃないのか?


( 2012/04/20 19:21 ) Category ■平安時代 | TB(0) | CM(1)

赤松満祐が義教を殺そうと思ったきっかけのひとつ 

750 :日本@名無史さん:2012/02/02(木) 02:54:11.39
赤松満祐が義教を殺そうと思ったきっかけのひとつ。

赤松さんちのみっちゃんは、弟の則繁くんと仲が良かった。
ある日義教が、則繁くんの領地を召し上げて、別の赤松姓を持つ奴に
プレゼントするというじゃあないか!
みっちゃん「どうしてじゃあああ! 則繁くんが何か悪いことしましたかあああっ!」
義教「ん……だってさ、こいつが『あそこの土地が欲しい』って言うんだもん」
こいつ、とは赤松姓を持つ若僧。
義教「僕達、ラブラブなんだよね~♪」
若僧「ラブラブですよ~上様ぁ~ん♪」
(て、てめええっ! おホモ達には今までの経由なんか考えず、土地を与えて行くのかよ!?)

帰宅してみっちゃん、則繁くんに事情を語る。
則繁「兄ちゃん! おれ、めっちゃ悔しいっす! 先代の義持様はともかく、今の義教様だって
こっちは今まで通り忠義をやってるんですよ! それが、あんなぷりんぷりんのケツのために
おれの領土を持っていかれるって、どうなんですか!? 許されないですよね!?」
みっちゃん「腹立つよなあ…いや、腹立つだけでは納まらんよ!」

かくしてみっちゃんは将軍暗殺す!を肝に銘じ、則繁くんも最高に協力したのである。
で、嘉吉の乱当日へ向かっていく。

という話を高校時代に読んだんだが、典拠はどういう書物でしょう?
この文章は25年ほど前に百科事典(結構詳しい奴)に載っていた文章をアレンジしました。




752 :日本@名無史さん:2012/02/05(日) 01:03:39.22
>>750
赤松貞村というのが「こいつ」の姓名。
義教の大名統制策の一環であり、男色は
理由づけだと思われる。

有力な大大名である赤松氏が将軍の意のままになるチャンスだったのを
満祐が潰したというのが正解。

結局曾孫に幕府の存在基盤を危うくしてまでも大名統制に乗り出させる
結果をつくったのは、尊氏が外様大名に領地をあげ過ぎたことが原因。
そうしないと南朝に奔るから仕方ないのだけど。

義教は気の毒な人生だ。後醍醐の我がままに最後まで付き合わされて殺されて。
後南朝の掃討も義教の仕事だった。

753 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 04:23:18.72
>>752
thanks!
「若僧」って書いたけど、若僧って年齢でもないな。

日本に封建制度は合わないんだろうか?

754 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 13:00:22.54
>>753
合わなかったら800年も続かないと思うが

755 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 14:12:48.13
現状をみると民主主義の方が合ってない気がする


( 2012/04/20 19:18 ) Category 赤松満祐 | TB(0) | CM(0)

鎌倉武士は忠君の情が厚かった 

746 :日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:01:45.48
「鎌倉武士のなんともいえぬ潔き気風の真髄となっているものもやはり平安時代の「あわれ知ること」である。
平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。
彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、
その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。
自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、死を決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。
足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。
落花に対して風を恨んだ源義家もある。
梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。
熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。
これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。
実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)

747 :日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:03:24.29
忠君の情が厚かった。
そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、
この「あわれ知る」という気風であったのである。
武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。
理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。
鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。
このことについては、武士はいつ死ぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、
在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、
我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)




748 :日本@名無史さん:2012/02/01(水) 20:44:52.61
>>747
>忠君の情が厚かった。
>そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、この「あわれ知る」という気風であったのである。
ものすごいお花畑脳内妄想だな。w

749 :日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:59:52.70
>>747
これは、史実無視の精神論ってので、悪い話ですね。


( 2012/04/20 19:13 ) Category 雑談 | TB(0) | CM(2)

おくり名修正のこと 

745 :日本@名無史さん:2012/01/23(月) 01:00:01.80
おくり名修正のこと

承久の乱から20年後、隠岐島に流罪となった本院が崩御なさる。
朝廷は故院に「顕徳院」とおくり名したところ、都に夜な夜な
人魂が出たそうな。人々は「故院の祟り」と噂し、2年後朝廷はついに
故院へのおくり名を「後鳥羽院」と改めた。

すると人魂も治まり、故院の怒りは解けたということだ。
おくり名が変えられた帝は後鳥羽院が唯一である。
不遇な天子に贈られる「徳」の字が気に入らなかったのだろうか?


( 2012/04/20 19:11 ) Category 後鳥羽天皇 | TB(0) | CM(0)
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